自由報道協会の理想と現実

 先日、自由報道協会が一周年を迎え、それを記念してか顕彰発表があった。(http://fpaj.jp/?page_id=2143)発表は途中まで見ていたのだが、なんだかなーというイメージが先行して途中で見るのを辞めてしまったわけだが、発表後に受賞者一覧を確認するとやはりなんだかなーという印象を強める結果になってしまった。

 なぜそういった印象を受けたのかを、自由報道協会へ対する違和感を交えながら考えていきたい。

 まず、自由報道協会とは何なのかを説明が必要なのかもしれない。簡単に言ってしまえば、日本の報道の大部分は記者クラブという新聞・テレビといった大マスコミで作られるサークルを経由して伝えられる。この記者クラブは、警視庁なら警視庁記者クラブ、国会なら国会記者クラブ、地方へ行くと県の記者クラブという具合に、各々の組織に密着する形で存在する。
 警視庁で記者会見を行う時、主幹は記者クラブの持ち回りで、参加者は記者クラブのメンバーのみで構成される。フリージャーナリストや、新興のネットメディア、週刊誌などの記者はこの記者会見には参加することが出来ないという問題がある。
 民主党が政権を取る前、マニフェストに記者会見をオープン化するという項目があったのだが、実際に開かれた記者会見が実現することは少なかった。
 フリージャーナリストや新興ネットメディアが中心となって、昨年に自由報道協会が設立されることになる。

 自由報道協会の設立趣旨にあるように、理念として自由報道協会はメディアではなく会見の場を提供するだけで、自由報道協会として政治的なメッセージを投げるような組織ではない。また、取材・報道目的であれば誰でも参加することが出来る、とある。実際に、参加は誰でも可能なようだ。もちろん、大マスコミである新聞記者なども参加可能だ。

 だが、自由報道協会に対してマイナスの感情を持つ一般市民も少なくない。軽いジャブ程度に例を挙げると、会見に参加する者のレベルは玉石混淆であり、下のレベルの者が行う質問はものすごくレベルが低い。記者クラブで行われる質問は決してすべてレベルが高いとは言わないし、アホな質問も多々あるが、自由報道協会で行われるアホな質問に比べるとまだましな方だという印象がある。
 基本的に記者クラブはバックの組織をもとに行動しているわけで、上司からこれは絶対に聞いてこいという指令が出ているのは用意に想像できる。一方で、自由報道協会での会見の場合は、フリーだったり新興メディアで経験が浅い者が目立ち、的外れな質問を投げてしまう事が多い。
 代表の上杉隆は、この問題に対して「それは問題ではない。場が与えられ、経験を積んでいけばそのうち解決されていく。」という趣旨の発言をしている。それは確かにそうなのだが、もう少し入り口の所でなんとかならないものかと思う事が多い。だが、私にもその解決策というものが思い浮かばないので、上杉隆が言うように時間での解決を待つしかないのだろう。

 ジャブのつもりで書いたつもりが、ちょっとだけ長くなったが本稿の趣旨からは外れている。そろそろ本題に入っていきたい。

 自由報道協会設立後すぐに、東日本大震災が起こる。そして、福島原発事故が起こるわけだが、そこから自由報道協会がおかしくなったというか、おかしく映るようになったと私は感じている。

 原発事故以前から、原発や放射能に関する話題というのは、イデオロギー色が色濃く出てくる問題である。福島原発事故以降はイデオロギー色は若干薄まった印象を受けるが、イデオロギー色が消え去ったわけではない。
 むしろ今まで関心がなかった人達を、反原発活動に誘う役割を自由報道協会がしてしまっている事に、理念はどこへ言ってしまったのかと感じるところである。

 ここをもう少し掘り下げていきたいのだが、自由報道協会そのものの原発に対する考え方は、「反原発であろうと、原発推進であろうと、喋りたい人がいれば喋ってください」というもので、誰でもウェルカムであると言っていて、そこに嘘はないだろう。
 だが、自由報道協会発の情報を眺めている限り、反原発活動に勤しむ方々の話ばかりが目につく。
 事、原発や放射能まわりの話に限ると、自由報道協会は反原発活動の広報的役割を担っている側面が事実としてあるということだ。これは意図的にこうなっているというわけではないと思う。残念ながら、結果としてそうなってしまっているという事だ。

 その原因について考えるに、皆が考えるほど放射能は危険ではないという立場をとる、例えば池田信夫のような人がいるとする。そのような人は、自由報道協会で会見しづらい空気のようなものが出来上がってしまっていると、感じているらしい。

 実際には数の面で言えば、自由報道協会での会見で反原発的な会見は多くはない。もちろん、池田信夫のような立場をとる会見ははるかにすくないのだが。

 会見の数は多くはないけども、自由報道協会が反原発色に染まってるという印象をうけるのはやはり、自由報道協会の中心的人物の活動が、外から見ると色濃く反映しているように見えてしまうからだろう。今後もこの傾向は続くと思われる。

< <追記>>
まとまりのない文章で申し訳ない。
なかなか考えが整理できていないのが原因なのだけども、今書いておかないと、より整理が出来なくなってしまう事を懸念して、今回書かせてもらった。

自由報道協会の功罪を考えると、ちゃんと功もある。画一的な報道からの脱却という点では、素晴らしい功績であり、賞賛に値する。

しかし、罪も同時に生み出してしまっている事も確かだ。
例を上げれば、バズビーのような人物を宣伝してしまった事だ。

設立趣旨にある理念をいかに守りぬいていけるかが、今後の自由報道協会の評価に繋がっていくのだと思うわけです。