祖母の話をしよう

今まで、私の家族についてこのブログで何かを書いていたかというと、昔にちょろっと書いたこともあったが、最近は家族の話は極力書くことは避けていた。書いたところで、誰が興味を持って読むんだ?という事もあるし、たいしたおもしろいネタがそこにあるわけでもない。

だが、今日は特別な日であるから、14日午前1時から執筆することにする。

祖母が亡くなった。数時間前のことだ。享年97歳。亡くなった正確な時間はわからない。いつの間にか息を引き取っていたのだ。明日、死亡診断書に書かれる時刻が、法的な死亡時刻ということになるのだろう。その亡くなった祖母の話を、私が忘れないために書き残しておこうかと思う。

私の知る祖母は直近30年だけである

まずは簡単な家族構成について書いておこうか。さすがに家族構成については、10年後、20年後になって私が忘れているということはないだろうが、読んでいる人にとってはなんのこっちゃっという感じであろうから、いちおう書いておく。

昨日亡くなったのは、母方の祖母である。この祖母とは30年近く同居している。主に祖母の面倒は私の母がみているのだが、私の母は3女にあたる。上に姉二人、兄二人がおり、一番下の娘ということになる。

通常、世間では長男あたりが、親の面倒を見る責務を果たすという、なんとなく暗黙のルールがあるように思えるが(いわゆる、家族社会のルール)、我が家の場合はそれに当てはまらない。どうしてこうなっていたのかは、「祖母本人がそれを望んだ」という話らしい。ということしか知らない。私にとっては、気がついたらこの家族構成だったとしか言えないのだ。

母の兄弟は、長女だけは近所に住んでいるが(と言っても、同じ市内というレベルだが)、他は埼玉、群馬、長崎とずいぶんと離れている。私の記憶の範囲だと、この30年間で一堂に会したのは、祖父の墓を移す時だけじゃないかと思う。そのときのシーンを克明に覚えているかというと、そうではないので実に怪しいのだが。

東京生まれだが、微塵も感じさせない

元々私の一家は、長崎は佐世保市に住んでいた。何を隠そう、私も佐世保生まれの人間である。が、幼少の頃今の地に引っ越した関係で、佐世保の記憶はほとんどないに等しい。

祖母は元々は東京の下町生まれだそうだが、結婚してその後に長崎は佐世保に引っ越したらしい。なので長年、佐世保に住んでいたと言うことで、九州訛りが強く出る話し方だった。

いつから長崎に住んでいるのか。はっきりしたことは知らない。東京大空襲の話をしていたような気がするから、その頃までは確実に東京に住んでいたのだろう。が、詳しいことは知らないのだ。

私が幼少の頃、そしてまだ元気だった頃、女学校時代の話をしていたというのを覚えているが、このあたり記憶が曖昧で何の話をしていたのか、さっぱり覚えていない。ただ覚えているのは、東京に住んでいたという話を、九州訛りで説明を受けた違和感だけだ。

旦那と写真

祖母の旦那。すなわち、私からみれは母方の祖父ということになるが、まったく記憶にない。それどころか、写真すら見た記憶がない。いや、一度だけ写真を見たような気もするが、その写真に写る顔はまったく思い出せない。

私が生まれた時、まだ存命だったという話であるが、私はまったく覚えていない。

私の祖母は、まだ元気だった頃は日課として、午前6時と午後2時にお経を読み上げていた。だが、仏壇には祖父の写真が飾られるとうこもなく、どこにも祖父の写真は見当たらない。母が言うには、どこかに祖母が隠してしまったという話しだった。

相当嫌な結婚生活だったんだろうか。とにかく、祖父の話はしたがらない。思い出したくもないようだった。

そんな祖母だが、数日後には同じ墓に入る。生前、同じ墓に入るのは嫌だという言葉を聞いたことはないが、嫌だったのかねぇー?

障害と認知症と

祖母は事故で片足を膝上からなくした障害者であった。とはいえ、障害者らしい生活というか、不便は不便なりに、生活をしていた。

片足をなくした障害者であるが故に、家から外に出ることはまずない。庭に出ることはあったが、家の敷地から出るという事は本当にない。

車椅子は使っていなかったのか?という疑問をお持ちの方もおられると思うが、答えは使っていなかった。正確には、車椅子を使うのは難しかったと言えばいいだろうか。

これは、我が家がちょっと崖っぽいところに建っている関係で、玄関の前に20段を超える階段が存在するのだ。仮に、祖母を車椅子で外に連れだそうとするには、車椅子を階段下まで運び、祖母を担いで階段を降り、車椅子に乗せるという作業が必要になる。そして家に帰るときは、その逆の工程である。これは非常に負担がかかる。ちょっと商店街にお出かけという具合にはいかないのだ。

なので、ここ30年で家の敷地から出たのは、1回しかないのではないか。祖父の墓を移したときだけだ。

であるから、祖母にとって会話をする相手は、我々家族だけである。

長崎にいたときは、裁縫教室をしていて、それなりにコミュニケーションをとる相手もいたのだろうが、神奈川に引っ越して以来は、外部との連絡を絶つようになってしまった。時折、親族が電話をかけてきて、無事を知らせるといった事もあったが、そんなに頻繁に電話がかかってくるわけでもない。

我々、同居している家族も日中は外に出ており、とりわけ祖母との会話が多いわけでもない。祖母はどうも一人の世界に入り込んでしまったのだろう。

朝5時過ぎに起きて、お経を読んで、朝ご飯を食べて、テレビ見て、昼ご飯を食べて、お経を読んで、またテレビを見て、夕食食べて、テレビ見て、そして寝る。

70歳ぐらいからこんな生活である。

あーそうそう。お風呂に入る頻度がものすごく少ない人だったね。足が不自由であるが故に、お風呂に入るのも大変なのだ。そのくせに、人の手は家族であろうと借りたくはない、非常にプライドの高い人だったのである。

トイレに関しては、数年前まではひとりで用を足せた。両手を使って、トイレまで自力で移動出来たし、なんら問題がなかったが、ここ2年ぐらいでトイレに行く体力もなくなってきて、排泄も難しくなり、今年に入ってようやく観念したのか、おむつを着用するようになった。

それまでは、ものすごくオムツやら、介護ヘルパーの方やらを拒絶していた。プライドが許せなかったのだろうか。

そんな障害とコミュニケーション不足の祖母であるが、ここ5年ぐらいだろうか、認知症が進むことになる。会話は我々家族だけ、体も動かすことも少なく、物置のようにじっと生活している祖母であるから、とうの昔に認知症になっていてもおかしくないのであるが、発症したのは90歳を過ぎてからである。

認知症が進行していると言うことがわかったのは、ある日の夜中に、じっと玄関に座ってぼそぼそと独り言を話しているのを目撃したときだ。

よく、認知症で家族が悩まされるのは、徘徊だと思うのだが、我が家の場合は幸か不幸か、祖母は障害者故に、外を出歩くということがなかった。あくまで家の中を動き回るだけである。であるから、負担が大きくかかったかというと、そんなには負担にはなっていなかった。放っておいても、動き回ることをあきらめ、いつもの自分の場所へ戻ると、家族は思っていたし、実際にそうだった。

認知症発症からの寿命は、個人差はあるにしろ90歳を超えての発症であり、もって2年といったところかと、ある程度の覚悟は発症が発覚したときにしていた。実際には5年ぐらいもったということで、よくもったほうだと私は思う。

認知症になってからは、何を言ってるのかロジックが抜け落ちた話をしていたのだが、出てくる登場人物だったり情景を考えるに、どうやら結婚前の断片的な記憶を引き出しから引っ張りだし、再結合して独り言をしゃべっているようだった。もちろん、その再結合した結果は、突拍子もないことなんだが。結婚前はうれしいこともいっぱいあったんだろうね。

内孫として

なんでかわからんけど、祖母と30年近く同居してきた。家族のひとりとして、もう少し人間的に豊かな生活をさせてあげられなかったのだろうかと、今になって思う。環境も時間もあったはずだが、私は何かしてあげられたのだろうか。何もしてあげられなかったのではないか、今激しく後悔している。

うまく文章をまとめられない。もっといっぱい書くべき事もあったはずだが、今は感情を揺さぶられ、ちゃんとした文章を書くと言うことが出来ない。落ち着いたときに、いつか整理をして文章を書くことにする。